人は突然、命を絶つことがある。そこには、もともと自殺念慮があったのかもしれないし、自殺衝動にかられ命を絶ったのかもしれない。ただ、生死を決めるのはいつも自分自身なのである。そして、私達カウンセラーは「生きていて欲しい」と、常に願っている。
先日、三浦春馬さんがこの世を去った。突然、舞い込んだ訃報にどれだけ番宣であってくれ、と願ったことか。そして、どれだけ時間を巻き戻したかったかわからない。
みんなが願えば、数時間くらいの時間は戻せるのではないか、これだけ化学が発展したのだからどうにかこの世界に引き戻せる方法があるのではないかと、わけのわからない錯覚に陥ったが、やはり時間は進む一方で、どんどん現実味を帯びてくる。
知らぬ間に、「否定」⇨「怒り」⇨「(神との)取引」⇨「悲しみ」⇨「受容」と、悲しみの5段階プロセスを踏んでいるように思う。
これまで、誰かの死を日本中で共有して悼んだことなどあっただろうか。きっと、彼は知らない間に私達の心のなかに住み着いていたのであろう。
俳優としての彼は、表情や仕草、動作まで、まるですべて計算したかのように綿密に役を演じる人間であったように思う。
与えられた役と真摯に向き合い、そして丁寧に演じる。彼の演技から伝わってくることは、彼がいかに実直な人間だったかということである。
まるで、「雨にも負けず、風邪にも負けず」(宮沢賢治)のようなイメージだ。
日本が美徳する「勤勉、謙虚、控えめ、気遣い」、すべてを兼ね備えていた人だったからこそ、いつの間にか「当たり前にそこにいる」存在になったのだろう。
そして、私達、日本人は実直な人間を失うことは受け入れられない。真面目に努力した人間は報われないといけない。そして、ハッピーエンドで終わらせなければならないのだ。
さらに言うと、彼のように「命を題材」とした作品に多く携わった人間だからこそ、考えられない選択であり、また真面目で責任感の強さからも、仕事や他者への影響も考えず、そういう選択をしたということは、まったく腑に落ちないのである。(府に落とせない)
むしろ、役作りのためストイックに稽古していた最中の事故、という方がまだ彼らしいような気さえするし、そうであって欲しいとも願う。
ここで、彼の死について分析するつもりはないが、どのような分野であれ突き詰めると最後にぶち当たる壁は「生と死」だ。そして、そのからくりに気が付いてしまったのかもしれない。
文学、音楽、美術、演劇、数学、その他どのような分野であっても命を削って作られた作品には魂が宿っている。
それゆえなのか、「死」と近づきすぎてしまうことがあるのかもしれない。
彼がなぜ亡くなったのかはわからないし、今後もわかることはないだろう。
だが、本当の死が忘れられたときだとすると、彼はまだ生きている。それは、まだ見ぬ作品のなかかもしれないし、私達の心のなかなのかもしれない。
そして、もし「この世」とは違う世界があるとすれば、きっと三浦春馬という人間はそっちの世界でも表現者としての自分を磨き続けているのだろうと、思う。
生きるということ
「生死」とはとても難しい問題だ。人には生きる権利も死ぬ権利もある。でも、誰も目の前の命を失いたいと思う人はいない。
「何のために生きているのかわからない。」「死んだ方が楽。」そういう人もいるが、それでも生きていてほしい。例え、それがエゴと言われようとも。
人は産まれた瞬間から死に向かって歩いている。寿命を全うする人もいれば、病気になり亡くなる人も、安楽死を選ぶ人も、事故にあい亡くなる人も、自ら命を絶つ人もいる。
生きることは試練の連続であり、まさに修行そのものといっても過言ではないのかもしれない。
それでも、せっかく生まれてきたのだから、今を楽しんでほしい。この世界はいろいろなものに溢れている。それを、知って欲しい。
言い方は悪いかもしれないが、人間は限られた寿命のなかでしか生きられない。限られた命だからこそ、常識の範囲内で楽しまないと損なのである。
そして、人生の終わりに「波乱万丈だったけど、おおむね良し。」と、思えればそれで十分なのではないだろうか。
今は、生きる意味がないと感じているかもしれないが、生きる理由は年を取れば否でも応でも(いやでもおうでも)できる。
そして、後に残す者のことを思い、死ぬに死ねなくなる。それは、家族かもしれないし、友人や恋人かもしれない、はたまた仕事仲間かもしれない。
同じ生物であっても、昆虫や植物、動物は「なぜ、生きているのだろう?」とは、考えない。そもそも生きること自体に使命があるから。
人間も同じだ。生きることに「理由」はいらない。ただ花のように、草木のように、ただそこにそっと咲いていればそれでいい。
そして、強い花も弱い花も咲けるような、そういう社会であって欲しいと思う。
ボイスカウンセラー
齋藤 唯衣(さいとう ゆい)